『裁判員スタート―新しい司法を国民の手で』:「市民感覚」で裁判員をやって判決を下すことを期待する朝日社説

2009年5月20日(水曜日)付 朝日新聞社
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で
・閉鎖性からの脱却を
・民主主義の成熟にも
司法参加を次の改革へ
http://www.asahi.com/paper/editorial20090520.html

●●●朝日の社説 Ver.142  より
http://society6.2ch.net/test/read.cgi/mass/1239959370/l50

632 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 05:57:31 id:GFEOgHXK0
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で
いろいろと問題の多い社説だな。ツッコミどころが多岐に渡る。

>いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。
お得意の「先進国云々論」であるが、未だに先進国の定義が示されていない。
ともあれ朝日新聞的には「韓国は先進国」という認識になったのだな。
せっかく示してくれた判断だ。これからはこれでいってもらう。

>日本弁護士連合会が、取り調べの全過程録画を求めるために集めたものだ。自白の強要を防ぐとともに、
裁判員制度が始まっても冤罪を招かないようにするためだ。

日弁連の阿呆ぶりここに極まれりといった風であるが、朝日新聞は何一つツッコまないのだろうか?
「取り調べの全過程」が3時間なら、それを見るのにかかる時間は3時間だ。
10時間なら、それを見るのにかかる時間は10時間だ。
50時間ならそれを見るのにかかる時間は50時間だ。
見ていられると思うか?そんなビデオ?ほとんどの人が途中で寝てしまうだろうな。

法務省は「重大犯罪ほど、主権者である国民に社会正義を回復してもらう意義がある」と説明するが、
>この考え方が根付くには時間がかかるだろう。

朝日新聞もツッコミ無しかよ。
「国民に社会正義を回復してもらう」のが目的なら、なぜ職業裁判官が裁判員と共に裁判に参加するのか?
「過去の判例では云々」という議論は「社会正義云々」という議論となじまない。
こういう趣旨なら、アメリカの陪審員と同じように、素人だけが参加して「有罪か無罪か」を判断させるという
方法を採る方が説得力がある。

633 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 05:58:32 id:GFEOgHXK0
>5年前、国会は全党の賛成で裁判員法を可決した。
>だが最近になって制度の見直しを求める超党派議員連盟もできた。
>刑事裁判の枠組みを根本的に変える改革なのだから、懸念が出ることはむしろ当然のことだ。

バカかテメーは。「懸念が出るのが当然」なら、なんで5年前は出なかったんだよ。
「当然のことだ」なんて言って落ち着いていていいのか?
何が「議員連盟」だ。5年前にできなくて今頃始める政治家ってのは一体どういう奴らだ。5年前に気づけよ。
こんな重大な問題なのに「全党の賛成で可決」というのは、政治家の怠慢と無能もさることながら、
マスコミ各社が裁判員制度について一切の批判をしてこなかった証拠だ。
政治家ってのはマスコミが騒ぐと行動を変えるって事だな。全くばかばかしい連中だ。

>やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。
>そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。
>国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。
>司法改革第2幕へとつなげたい。

ずいぶんと物騒な事を抜かしてくれるな朝日新聞よ。裁判員制度適用裁判の拡大化が次の狙いとはな。
「人権侵害」や「憲法判断」まで裁判員の守備範囲ですか?
しかも民事とは「金をいくら払え!」という趣旨の個人が起こす裁判である。
そんなものに裁判員が参加せよというのは尋常ではない。

おまけにまた出た「市民感覚」。「判決は市民感覚からかけ離れた論理が目立つ」と言ってのけるとは。
お〜いみんな聞いたか?市民感覚裁判員をやってそして判決を下していいんだとよ。朝日新聞のお墨付きだ。
今日の社説は各自保存すべしである。「市民感覚」で裁くことが重要だと朝日様が言っておられる。

山口県光市の母子殺害事件、このような事件も「市民感覚」で裁こうや。朝日新聞のお墨付きだ。
その時に限って朝日がゴチャゴチャ抜かしたら、今日の社説を突きつけて、この嘘つき新聞めと言ってこの会社追い込もうや。

635 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 09:17:56 id:JUSq+MCp0
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で
↓今日の社説のポイントは5行目のここだな。
>この夏には、裁判官の隣に座る市民たちの姿が見られることになる。

それまで「国民の、国民主権に立つ・・・」ときてたのに、何故かここだけ『市民』。

>国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。
>司法改革第2幕へとつなげたい。

朝日には、「靖国訴訟」や「従軍慰安婦訴訟」、「沖縄集団自決訴訟」の法廷で
裁判官の隣に座る『市民たち』の姿が鮮明に見えるんだろう。ww

636 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 09:38:13 id:dGURuyLX0
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で
総括:司法を対国家権力用人民裁判所にしよう!

>国家の権力を形作る立法、行政、司法の3権のうち、
立法権と行政権は、国政選挙と、その結果にもとづく議院内閣制のもとで、
>国民の意思が反映される仕組みを培ってきた。
>なのにひとり司法だけが、人々の手の届かない存在となってきた。
最高裁裁判官国民審査とか無視ですか…遅くとも今年9月(てか衆院選と同日)にはやるのに……

>やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。
>そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。
論の流れから察するに行政訴訟のみを意識した文章なんだろうけど
行政訴訟はそもそも行政行為への反対がなければ始まらないんだから
提訴するような「市民」(あえてカギカッコ付き)の感覚からかけ離れるは当然だろ
コトアゲした連中の意見が市民(こっちはカギ無し)のコモンセンスだなんて勝手に決めるなよ

あと憲法判断云々は「憲法判断せずとも解決できる案件で安易に憲法判断をすべきではない」
という理念(ブランダイス・ルール)がアメリカにあって、日本もこれを採ると解釈されている
ていうか何でもかんでも司法様憲法様のお告げで決めるんじゃ立法府の存在意義ないだろ;;

>国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う
>民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。
上で引用した3権言説と並べて考えると「3権全てを国民のヒモ付きにしろ」と言ってるに等しいんだが
(むしろ「一番国民の直接参加比率の少ない行政を立法・司法よりも格下に位置づけたい」かも)

だったらいっそ司法も含めた3権府いらないじゃん、全部国民に直接やらせろや(皮肉)
当然何か問題あったら当該事象に直接参画した個人が責任取るということで(皮肉2)
それが嫌だから「お上頼み」が残ってたんだし
何でもかんでも対個人リンチまがいの状態になるのを避けるための間接民主制だろ

637 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 10:02:19 id:WO6zPZ8G0
行政が対策を講じると、「過剰な対応」「牛刀で卵を割った」
人権に配慮した、生活が行える程度の対策だと、「後手後手で感染をひろめた」

アサヒってすばらしい!

638 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 10:19:44 id:THIbo7Yn0
アサヒ社説子にとって、
「国民」とは・・・流されやすく煽動しやすい大多数の愚民を指し、
         大義名分を語る時に使用する。
「市民」とは・・・洗練されたリベラル思想を持つ平和主義者・死刑反対論者を指し、
         自分の理想世界を想い描く時に使用する。

639 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 10:31:53 id:THIbo7Yn0
>そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。

憲法判断?
ぁあ! 日の丸・君が代とか、官舎ビラ配りとか、靖国とか集団自決とかの件ですね。
早く「市民」の人たちが素晴らしい判決を出してくれる日が来ると良いですね。

コネーヨ! バーカ

640 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 11:38:03 id:rXh9VZLAO
法律とは…最低のモラルだ。
何処かのお偉いさんが言ってたな。

641 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 13:44:10 id:qi48KjIv0
散々裁判員制度を批判していた新聞が、
あっというまに大賛成に豹変した。

643 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 15:40:37 id:R2UFYbbh0
>民主主義の成熟にも
また日本人をバカにした酷い表現だな
日本が「成熟した民主主義」じゃなきゃ世界に民主主義国家なんて一つもないぞ
まあ朝日にとっちゃ日本はいまだに「戦前の軍国主義を引きずった非人道的国家」なんだろうが

644 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 15:53:46 id:cIRgPUq70
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で

>いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。
> 民主的な社会を一層成熟させていくうえでも意味は小さくない。

進歩主義

645 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 17:31:34 ID:5tVXJATH0
>>641
朝日の手のひら返しはいつものことw
戦前戦後の論調に比べれば大した手のひら返しじゃないしw

そういえば散々叩きまくった安倍が辞任したときは
産経のヒイキの引き倒しが原因だとか抜かしてたなあ。
裁判員制度も問題でもおこりゃまた手のひら返しで叩きまくるさ。

646 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 17:38:12 id:J93dkZtZ0
>国民の裁判参加は大日本帝国憲法下の20世紀前半に試みられたことがあるが、
戦前日本の民主主義も捨てたもんじゃない。(陪審制度1928年―1943年)
>■民主主義の成熟にも
アメリカの陪審員制度は民主主義の成熟というより西部開拓時代広すぎて裁判関係者が
不足した結果必要に迫られてできたものと聞く。
「民主主義」とか「成熟」の定義にもよるから結びつけることに意味はない。言える事は
裁判員制度はどうやら昨今国際的に熱病のごとく流行しているらしい。

648 :文責・名無しさん:2009/05/20(水) 21:39:11 ID:+YC9x7qW0
>>643
だからアサヒの言う「民主主義」とは民主党こそが政権を担うべきというドグマだってば

朝日社説全文は以下
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2009年5月20日(水)付
印刷
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で
裁判員スタート―新しい司法を国民の手で 裁判員制度が、あす始まる。

 国民の裁判参加は大日本帝国憲法下の20世紀前半に試みられたことがあるが、国民主権に立つ現憲法ができてから62年をへて、大変革が現実のものになる。

 司法の世界が開かれることに期待する人。自らが人を裁く立場に置かれることにたじろぐ人。さまざまに複雑な思いをのせて、この夏には、裁判官の隣に座る市民たちの姿が見られることになる。

■閉鎖性からの脱却を

 この制度は、国民にとってどんな意味を持つことになるのだろうか。

 国家の権力を形作る立法、行政、司法の3権のうち、立法権と行政権は、国政選挙と、その結果にもとづく議院内閣制のもとで、国民の意思が反映される仕組みを培ってきた。

 なのにひとり司法だけが、人々の手の届かない存在となってきた。法廷での判決は一貫して、裁判官というプロの法律家が担ってきたのである。

 欧米諸国には、市民革命などを経て、国民が陪審員や参審員として直接、裁判に参加する歴史がある。いまや国民の司法参加は先進国の標準となり、韓国も昨年から国民参与制の試行を始めた。

 プロが行う裁判は安定性や一貫性を強みとする。だが、とくに90年代以降の経済社会の変化、犯罪の多様化が逆にそうした裁判の閉鎖性、後進性を浮き彫りにした。そこで法曹人口の増員をはじめとする司法制度改革が始まった。重い犯罪を対象にする裁判員制度の導入は、その太い柱である。

 刑罰は国家権力の行使そのものだ。その決定に普通の人々が加わる。

 犯罪を繰り返させない、責任に応じた罰とは。同じ社会を構成する個人として被告に公平無私に対するとは。そうしたことをありふれた生活者の視点から考えて、法廷で判断する。

■民主主義の成熟にも

 国会に先週、段ボール箱29個に詰め込まれた約112万人分の署名が運び込まれた。日本弁護士連合会が、取り調べの全過程録画を求めるために集めたものだ。自白の強要を防ぐとともに、裁判員制度が始まっても冤罪を招かないようにするためだ。

 捜査当局は容疑者の自白にこだわり、それを記録した書面を重視する裁判は「調書裁判」と批判されてきた。

 これを、法廷での被告や証人の供述をめぐるやり取りを中心とした本来の形に改革する必要がある。国民の代表が裁判に直接参加し、プロをチェックする。これも裁判員制度の大きな意義である。

 民主的な社会を一層成熟させていくうえでも意味は小さくない。

 韓国では、経験者のほとんどが陪審員を務めたことに満足している、との調査結果が出ている。日本でも、検察の不起訴処分を再検討する検察審査会を経験した市民にアンケートしたところ、大半が「やってよかった」と答えた。公的な意思決定にかかわる体験が積み重なれば、「お上頼み」からの変化を促し、みんなでこの社会をつくろうという意識を高める一助になろう。だが、そう単純ではない側面もある。

 「感情に流されやすい素人に裁判官と同等の権限を与えていいのか」「裁判員の負担を軽くするために、審理が拙速になる」「人を裁きたくないのに、呼び出しを拒んで制裁されるとしたらおかしい」

 制度の開始が近づくにつれて、反対論や懸念も強まっているように見える。中でも、死刑を選ぶ判断について裁判員心理的負担は大きい。

 法務省は「重大犯罪ほど、主権者である国民に社会正義を回復してもらう意義がある」と説明するが、この考え方が根付くには時間がかかるだろう。

 5年前、国会は全党の賛成で裁判員法を可決した。だが最近になって制度の見直しを求める超党派議員連盟もできた。刑事裁判の枠組みを根本的に変える改革なのだから、懸念が出ることはむしろ当然のことだ。

 裁判員制度が始まれば、予想もしなかった問題も生じるだろう。しかし、誠実にひとつひとつ克服したい。3年後、必要に応じて制度を見直す機会が大事になる。

司法参加を次の改革へ

 忘れてならないのは、司法の改革を裁判員制度の枠にとどめてはならないということだ。

 トラブルを抱える市民が気軽に相談するには敷居が高く、泣き寝入りせざるを得ないことも。たとえ裁判に持ち込んでも、判決までには膨大な費用と時間がかかる。法廷で交わされる専門語や手続きは複雑で、傍聴する市民は蚊帳の外。やっと出た判決は、行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。そのうえ憲法判断となるととたんに慎重になる。

 日本の民事・行政訴訟の実態は、長くこのようなものだった。国民の司法参加は、人権侵害や公害、法令や行政行為へのチェックを担う民事・行政訴訟でこそ発揮されるべきだ。司法改革第2幕へとつなげたい。

 いま、全国の中学や高校の授業で、法律や裁判員制度が盛んに取り上げられるようになった。

 裁判への参加を、自由で民主的な社会を支える自然な行為と考える世代を作り出すためにも、裁判員制度を失敗させるわけにはいかない。