『首相の供え物―持論と矛盾しませんか」』:首相の靖国参拝で中国や朝鮮の干渉を誘う国賊朝日の社説

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独書録 April 24, 2009
「首相の供え物」を批判する朝日新聞社説 より
 朝日新聞の23日の社説は「首相の供え物―持論と矛盾しませんか」だ。参拝はおろか供え物もダメだというのだ。国のために殉じた人を国が悼むのはどの国でも当たり前のことだ。それを行わず、精神的支えを失わせて二本の国力・精神力を弱めようとしているのが朝日新聞である。そもそも首相の靖国参拝で中国や朝鮮の干渉を誘ったのが朝日新聞だ。国賊新聞である。

 社説では相変わらず、とんでもない独自の歴史観で話を書いている。

 「戦前、陸海軍が所管した靖国神社は、軍国主義の象徴的な存在であり、日本の大陸侵略や植民地支配の歴史と密接に重なる。神社内にある戦争博物館遊就館」は、そうした過去を正当化する歴史観をいまも伝えている」

 国のために殉じた人を国が悼むことが軍国主義の象徴ではない。まずは、人としてすべきことだろう。日本は満州国を建国したり、中華民国と戦争をしたが、「大陸侵略」などしていない。当時の満州は中国に属していなかった地域だ。満州は清国の最後の皇帝であった溥儀の故郷である。溥儀のための国家を作って悪いという理由は無い。アメリカが合衆国を作ったのと同じ理屈だ。もちろん満州ではインディアン虐殺のような行為は行っていない。

 また、日本は朝日の言うような「植民地支配」は行っていない。正当な手続きを経た上で「統治」したのだ。だから、朝鮮からも台湾からも日本は利益を得ていない。逆に国家予算並みの支出をして両国を近代化したのだ。

 それから朝日新聞は「『遊就館』は、そうした過去を正当化する」と言うが、とんでもないことだ。自虐史観もいい加減にしろと言いたい。そこまで自国をあしざまに言い、中国や南北朝鮮の肩を持ってどうするのか。

 「遊就館」に行けばわかるが、数多くの亡くなった日本兵の遺書が展示されているコーナーがある。涙なしには見ることはできない。今の我々には、命懸けで日本を守ろうという気概などどこにもない。御柱には申し訳ない限りだ。こんな日本になるとは思ってもいなかったろう。その責任の一端(多く)は、GHQの思惑通りに戦後民主主義を広めた朝日新聞にある。

 「先の大戦の責任を負うべきA級戦犯を合祀(ごうし)したことで、天皇の参拝も75年を最後に止まった。01年から6年続いた当時の小泉首相の参拝をめぐって国論が二分され、隣国との関係が激しくきしんだことも記憶に生々しい」

 天皇の御親参がなくなったのは、必ずしも「A級戦犯」合祀が理由であるとは言えない。朝日新聞は「冨田メモ」という胡散臭い代物で、そう思い込んでいる(あるいは確信犯)のだろうが、昭和天皇は春と秋の大祭には代理を立てて靖国を参拝されていた。「A級戦犯」合祀が理由であれば、そのような必要は無い。むしろ、当時の首相に対して「公的参拝」か「私的参拝」か、という馬鹿げた質問がマスコミによってなされるのが常態化したため、日本国の象徴である天皇陛下においては「私的」参拝などできないので、世間が騒がぬよう配慮され、参拝されなくなったのではないか。

 朝日は「小泉首相の参拝をめぐって国論が二分され」たというが、そうではない。当時のアンケートでは国民の80%以上が参拝に賛成していた。これを「二分」というのはデタラメだ。また「隣国との関係が激しくきしんだ」というが、日本の国内の問題で「隣国」があれこれ内政干渉してきているだけだ。日本が悪い訳ではないし、隣国に遠慮しないといけない理由など何一つない。

 「いくら私費でも、首相の肩書での真榊奉納が政治色を帯びるのは避けられない。憲法政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」

 政治色を帯びるのは、朝日新聞をはじめとするマスコミが批判し、野党がそれにのっかるからであり、更に隣国が騒いで国際問題になるからである。元凶はマスコミ、特に朝日新聞にある。お前が言うな。

 朝日は「憲法政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない」というが、首相の靖国参拝は何ら政教分離に反してはいない。たとえばアメリカの大統領はキリスト教の聖書に手を乗せて宣誓するが、誰も政教分離に反するとは言わない。政治家が特定の宗教を強制したり、特定の宗教に利益をもたらしたりするのが問題なのである(つまり公明党が限りなくクロに近い)。

 「首相自身も外相当時の3年前、靖国神社が宗教法人である限り、政教分離原則から首相や天皇の参拝は難しい、宗教色を除いた特殊法人にすべきだ、という論文を発表したことがある。参拝でないとはいえ、いまも宗教法人である靖国神社に真榊を奉納することは、論文の趣旨と矛盾するのは明らかだ」

 確かに、麻生首相靖国を「宗教色を除いた特殊法人にすべきだ」というのは知っている。首相には考えを変えてもらいたい。もしかしたら今回の供え物が、考えがかわった証拠なのかもしれない。朝日新聞は社説のタイトルで「持論と矛盾しませんか」というが、当の朝日新聞自身が、今までに散々持論と矛盾する社説を書き続けているではないか。持論を覆しても説明をせず誤魔化す。歴史教科諸問題も、従軍慰安婦問題もそうだった。

 「近づく総選挙を意識してのことなのだろうか。自ら参拝するつもりはないけれど、参拝推進派の有権者にそっぽを向かれるのは困る。せめて供え物でメッセージを送れないか。そんなご都合主義のようにも見えるのだが」

 何が「ご都合主義」だ。そもそも天皇陛下はもちろん、政治家が靖国を参拝し辛くしたのは他ならぬ朝日新聞であはないか。でなければ「宗教色を除いた特殊法人とか「」別の追悼施設」とかいった話は出なかった。諸悪の根源が偉そうにモノを言うな。

 腹立たしい社説を引用する。

 ↓ここから
 たかが供え物、されど、である。

 靖国神社の春季例大祭に、麻生首相が真榊(まさかき)を奉納した。「内閣総理大臣 麻生太郎」という札がついたサカキの鉢植えで、代金は私費で5万円を支払ったという。

 首相は昨年10月の秋季例大祭にも真榊を奉納していた。現職の首相が真榊を奉納するのは、2年前の安倍元首相以来のこと。それ以前は20年以上前の中曽根元首相までさかのぼる。

 麻生首相は「国のために尊い命を投げ出された方々に対して、国民として感謝、敬意を表するものだ」と、事実を認めた。「供え物を出した、出さないは言わない」と明言を避けた安倍元首相に比べれば率直ではある。

 一方で、なぜ参拝ではなく供え物にしたのかを問われると「説明する必要を感じない」「いろんな状況を勘案して」などと口を濁した。今後参拝するかどうかについては「適切に判断する」と、安倍氏同様のあいまいさだ。

 遺族や国民が戦没者を悼み、感謝をささげたいと思うのは、ごく自然なことである。春秋の例大祭終戦記念日などに靖国神社に参ったり、供え物を納めたりするのも、その気持ちの素朴な表れだろう。

 だが、内閣と政府を代表し、外交に責任をもつ首相がそうした行動をとるとなると、問題は別である。

 戦前、陸海軍が所管した靖国神社は、軍国主義の象徴的な存在であり、日本の大陸侵略や植民地支配の歴史と密接に重なる。神社内にある戦争博物館遊就館」は、そうした過去を正当化する歴史観をいまも伝えている。

 先の大戦の責任を負うべきA級戦犯を合祀(ごうし)したことで、天皇の参拝も75年を最後に止まった。01年から6年続いた当時の小泉首相の参拝をめぐって国論が二分され、隣国との関係が激しくきしんだことも記憶に生々しい。

 いくら私費でも、首相の肩書での真榊奉納が政治色を帯びるのは避けられない。憲法政教分離の原則に照らしても疑問はぬぐえない。

 小泉氏が火をつけた靖国論争は、こうした靖国神社の性格や歴史を改めて浮かび上がらせた。

 首相自身も外相当時の3年前、靖国神社が宗教法人である限り、政教分離原則から首相や天皇の参拝は難しい、宗教色を除いた特殊法人にすべきだ、という論文を発表したことがある。

 参拝でないとはいえ、いまも宗教法人である靖国神社に真榊を奉納することは、論文の趣旨と矛盾するのは明らかだ。

 近づく総選挙を意識してのことなのだろうか。自ら参拝するつもりはないけれど、参拝推進派の有権者にそっぽを向かれるのは困る。せめて供え物でメッセージを送れないか。そんなご都合主義のようにも見えるのだが。
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