「つくる会教科書 横浜市の採択への懸念」:天皇や神話を軽視せよと主張する朝日社説

凪論2009年08月23日
自由社の歴史教科書を批判したいだけの朝日新聞 より
http://blog.livedoor.jp/patriotism_japan/archives/51553772.html

朝日新聞8月23日付朝刊に「つくる会教科書 横浜市の採択への懸念」と題した社説が掲載されている。是非ご覧いただきたい。

 社説は、
asahi.com朝日新聞社):社説 2009年8月23日(日)09総選挙・高速道料金?無料化は合点いかぬ/つくる会教科書?横浜市の採択への懸念 via kwout

教科書検定は控えめにすべきだし、教科書は多様である方がいい。」

と一応良識を見せながら、

「しかしそれでも、つくる会の教科書は、歴史の光と影、自分の国と他の国との扱いにバランスを欠き、教室で使うにはふさわしくないと考えざるを得ない。」

とその良識を覆す。その論拠というのが、

天皇や神話を重視し、近現代史を日本に都合よく見ようとする歴史観が色濃く、中国への侵略、朝鮮半島の植民地支配については不十分なままだ。沖縄戦の集団自決にも触れていない。」

というものであるが、まったく論拠として成り立っていない。

 日本の歴史において天皇という存在が非常に大きい。天皇が権力を有していた時代はもちろん、権力を失った時代においても非常に大きな存在であり続けた。
藤原氏が権力を握っていた時代は、摂政、関白という天皇から与えられた地位と天皇外戚であるという血のつながりであり、その正統性は天皇の権威が源泉となっていた。
鎌倉幕府から始まる武家政権においても正統性は征夷大将軍という天皇から与えられた官位であった。
しかもその官位を与えられる要件として清和源氏の子孫であるという皇族の末裔であることすら求められていたのである。

 例えば中国の歴史においては、新たな権力が誕生するとそれまでの権力は根絶やしにされるのが通常である。
著名な三国志において亡国の主であった蜀の劉禅と呉の孫皓が天寿をまっとうしたことや、北宋趙匡胤が自らに禅譲した後周の柴氏を厚遇するように語り継がれているのはそれが特殊なことであったからである。
それが歴史の厳しい現実である。それから考えれば権力を失った後も依然として権威の源泉であり続けた日本がいかに特殊であるかがわかる。
そのような歴史の特殊性を考えると歴史教科書において述べられている天皇の記述は自由社の歴史教科書においても足りないと思う。

 また、歴史において神話を学ぶことの重要性については拙稿においてもしばしば述べてきた。
神話は小国が併合されて統一国家へとなっていくどこの民族でも存在する歴史を、その民族の価値観に基づいて神々を用いて作り上げられた物語である。
それは古人の物事の考え方を学び現代の様々な局面で生かすという温故知新に合致したものであり、神話を学んでこなかったことがおかしいのである。
朝日新聞は特定のイデオロギーを重視するあまり歴史教育とは何かということを軽視しているとしか思えないが、ひょっとしたら歴史教育にすら何の関心がないのかもしれない。

 また、社説は的外れ極まりない論理を持ち出している。

「気になるのは、横浜市教委の採択経緯が教育の現場の声を十分反映したものかどうか、疑念が残ることだ。」

という論理である。教育委員は議会の同意を得て選任される存在であり、保護者や生徒の代弁者となる存在である。
どのような教育がなされるかは保護者や生徒に対して最大限の配慮がなされなければならないはずである。
しかしながら朝日新聞は教える側の教職員の都合を優先すべきであると述べているわけである。
そもそも朝日新聞は国民の信任を受けた国会議員ではなく官僚が重大な判断に関与することに反対していたはずではないか。
そのような朝日新聞が歴史教科書問題においてのみ住民の信任を受けていない教職員や教育委員会事務局の職員の見解を重視すべきであると述べているのである。
朝日新聞の社説は詭弁に満ちたものであることがよくわかる部分である。

 また朝日新聞が述べているいわゆる「中国への侵略」、「朝鮮半島の植民地支配」及び「沖縄戦の集団自決」については議論の渦中にある論点である。
様々な見解が錯綜している以上様々な記述があるのは当然であって、それをもって歴史教科書に対する批判とするのはためにする批判と受け取られても仕方ないであろう。